ある朝の通勤時にそれは目前に現れた
改札を出て階段を下りたところで男性が仰向けに倒れて目を閉じている
階段の上を頭に横たわっており、ほぼ階段の下り始めの位置だったので転倒して階段を落下したのとは違う。意識を失ってその場で倒れたように見えた。
あたりには数人の通行人がしゃがみ込んで「大丈夫ですか?」と声をかけていた。年の頃は50代後半、しゃれた服装の紳士だった。
僕は一瞬立ち止まって手助けをしようか悩んだのだが、すでに数人取り囲んだようにしていたのでその場を離れるることにした。
歩きながら救命救急の講習会はこのようなときのために受けたのではないか?、「僕は救急蘇生の講習をうけています、これが終了証です」って行かなければいけなかったのではないか?そんな自責の念を持ちながら半自動的に会社に向かった。
人の命は限りがある。
それがいつどんな形で終わるか、多くの人はそれを知るすベはない。きせず余命宣告を受けた方であれば目の前に突きつけられた事実に悩み苦しみ考えるであろうが、普通に暮らしている限りは意識をしていないはずだ。
明日死んでしまうかもしれない、来週、来月、後一年、3年、5年、10年・・・
知ることが出来ないからこそ、明日に向かい希望を持ったり、逆に自分をごまかして先延ばしに出来るのかもしれない
休日の朝は近所のジョギングコースを走ることにしている。朝、まだ日が昇らない頃からコースに出て、暗い空が東から藍色に、そして明るい朱を帯び、力強いダイヤモンドの光のような朝日を見ながら走る。
そして、森に面したそのコースにはたくさんの森の生き物が住んでいる
夏場は生と生の終演が折り重なってそこに存在している。地上に出たばかりの蝉の幼虫、そして短い地上での主張を終え裏返って死んだ蝉、その両方を見ながら考える。
自分の最後の時をイメージしようと、この蝉のように空を見ながら最後を終えるのか、病院の白い天井を見ているのか・・・
無駄と思いつつ考えずにいられない
今、生きることを止めなければいけないのなら納得がいくか?
否!今は往けない
では、何をすべきか自分でしっかり考えて生きているか?
それも自信をもってうんと言えない。
毎日惰性で生きていないか、仕方ないとあきらめていないか?今日出来ることのベストをしようと日々努力しているか?数年先を見越して自分に投資をしているか?
ランニングコースで裏返って死んでいた蝉を見て、駅での出来事を見て、いつか自分の番が来るその瞬間まで今、自分に出来ることを考えねば
そんなことを思った朝
